ひんやりとした感覚がして目が覚めた。
億劫な瞼を持ち上げると、一番最初に目に映ったのは黒く美しいものだった。
「兄さん」それがその人のものだと分かり発しようと思った喉は掠れて空気だけが漏れる。
ベッドサイドに置かれた椅子に座っている兄さんが手元から視線を外し僕を見て少し微笑んだ。 「目が覚めたか?」優しい声が僕に降り注ぐ。うん、と返事をしようとして口を開けば空咳が出た。 ギアスを使っている時と違う苦しさ。心臓ではなくて肺の機能が停止しているみたいだ。 きっといま僕の体内には誰かがいて(それは僕が今まで殺してきたたくさんの顔も覚えていない人間に違いない) 僕を殺そうと肺を締め上げているのかもしれない。そんなわけはないとは分かっているが、つまりそのくらい苦しかった。
「水を飲むか?」咳きこむ僕を起こしてくれて背中を擦ってくれる兄さんがそう言った。 返事をすればまた咳が止まらなくなる気がしたから首を動かす。 背もたれとして枕やクッションを背中の後ろにおいてくれた兄さんはベッドサイドのテーブルからコップを渡してくれた。 その時に氷と水の入った桶のなかに白いタオルが浮かんでいた。さっきのひんやりとしたものはそれだったようだ。
渡された水を一口飲む。温くなく、かといって冷たすぎず熱と乾く喉にはちょうどいい温度だった。
空になったコップを兄さんの手に渡す。「熱を計ってみようか」頷くと左の耳に違和感を感じる。 それが耳温計だとわかったころには熱は計り終わっていた。「下がってきたな」液晶を覗いた兄さんがそう言って微笑む。 それはとても、まるで自分のことのようにとても嬉しそうだった。 よかった、と頭を撫でられる。それがとても気持ち良くて目を細めて受け入れる。 人に触られてこんなに落ち着くなんて、この人に出会うまで知らなかった。

「体調が悪いならちゃんと言わなきゃダメじゃないか」
「ごめんなさい」
「うん、まあ、気付けなかった俺も悪いんだが…心配するだろう?」

体調に異変を感じ始めたのは昨日のことだった。 喉がいがいがして目の奥から広がるような熱の感覚。ずんと思い頭に、ああ熱が出るかもしれないと思った。
今までだって風邪をひいたことはある。けれど母も父も兄弟もいない僕にはそのことを他人に知らせることを知らなかった。 教団内に医者がいるわけではない。看病をする人がいるわけでもない。 ただそういう事態のために用意されてある薬を飲んでひとり熱が引くのを待っていた。
だから昨日の夜、気づかれてそして慌てて医者を呼んだ兄さんには驚いた。 2,3日寝ていれば熱はひくと思いますよ。そう言った医者に兄さんは安心したように息をついていた。 僕には全てが別世界のように感じた。

「兄さん…学校は?」

よくよく見れば兄さんは制服ではなくいつもの私服を身にまとっていた。 今日は平日なのにどうして、と思っていると隣から「お前が苦しんでいるのに学校にいけるはずないだろう」と返ってきた。
家族とは、兄弟とは、そういうものなのだろうか。誰かが風邪をひき熱を出したら付きっきりで看病する。 知識としてそうであることは知っていた。けれどこの人は少し違う気がする。硝子細工を扱うかのように僕を大切にしてくれる。 (そうか、ナナリーか。あの少女は目も見えず足も動かない。この人にとっては何よりも優先すべきものなのだ) それに気づいて胸がちくりと痛んだ。だってこの人はきっと無意識に僕にあの少女を重ねているのだ。 (ああ、この中にいるのは僕が殺した人間ではないのかもしれない)

「なあロロ。もう昼を過ぎているんだが何か食べれるか?」
「…ううん、いらない」
「でも薬を飲まないといけないだろう。さっき梨を買ってきたんだ。もう梨も旬だから、きっと甘くておいしいよ」
「じゃあ、それたべる」
「よかった」

微笑む兄さんがとても眩しかった。片手で僕の手を握る。空いている手で僕の髪を撫でる。 それはきっと目の見えない妹のためにこの人がしていたことだろう。 (兄さん、僕はロロだよ。僕はあの少女じゃないんだよ)離れた手の熱を恋しく思った。

「あ、ロロ、その間に着替えておこうか。汗かいた服のままじゃよくないよ」
「わかった」
「ここ、置いておくから」

そういえば、と兄さんが言った。 「熱を出すのは一年くらいぶりじゃないか?」扉が閉まるころに聞こえたそれは返事を求めていなかったのだろう。 実際僕にはそれに対する答えを持っていなかった。(それは僕じゃないよ兄さん) 言えるはずのない言葉が空咳となって口から出た。
動くと咳が止まらなかった。肺が締め上げられる(兄さん、胸が苦しいよ) それを我慢して着替え終わることにはすっかり息が上がっていた。(ああ、殺される)

「大丈夫かロロ?」

一息をついたころに兄さんが戻ってきた。 梨と薬の乗ったトレーをテーブルに置いた兄さんは額に浮かんだ僕の汗をタオルで拭った。

「ごめんな、着替え、俺も手伝えばよかった」

申し訳なさそうに兄さんが顔を歪める。 (僕はナナリーじゃないよ)そう言いそうになった口を慌てて閉じて大丈夫だよと笑ってみせた。
可愛い装飾の施された楊枝を刺した梨を兄さんがとって差し出してくれた。 そのまま口元まで持ってきたそれを躊躇いなく口に含む。噛んだそれからは心地よい水分と甘みが広がった。 この人のこういうところには最初は戸惑った。けれどもう数か月ともにすごしてきてすっかり慣れていた。 (あ、またナナリーを重ねてる)風邪をひいているからといっても僕は目もちゃんと見えるから自分で取れるのに。
いつからか、ナナリーなんていなくなってしまえばいいのにと思いはじめた。 そうしたらいま僕は兄さんに出会っていないわけだけれども、僕がこの人の弟として生まれたかったと。

「おいしいよ、兄さん」
「そうか、よかった」

こんなに優しくてきれいな人が(外見だけじゃない。もちろん中身もだ)テロリストだとは到底信じれなくなっていた。 この人をテロに駆り立てるほどあの少女はこの人の中で大切な存在だったのだろうか。
残りを食べようと口を開いたらまた咳が出た。(嫉妬してるに違いない。僕がこの人に優しくされたから) すかさず背中をさすってくれた兄さんに大丈夫だと伝えるつもりで微笑もうと思って失敗した。

「ねえ、兄さん、苦しいよ。誰かが僕の肺を締め上げてるみたい」

口から出たのはその言葉だった。
兄さんは驚いたように目を大きく開かせた後、大丈夫だよときれいに微笑んで僕を抱きしめてくれた。

「ちゃんと薬を飲んでゆっくり休んでたら、すぐに良くなるよ」

幼子をあやすように背中をとんとんと撫でる。(兄さん、本当なんだよ、兄さん) それはとても心地よい。けれど僕の中の人間はまた僕を締め上げる。

「風邪をひいて弱気になってるんだよ。大丈夫、ロロが学校にいけるくらい元気になるまで、俺がずっとそばにいるから」
「ずっと…ずっとだよ。兄さん、ずっとそばにいて」

零れた本音を兄さんは優しく受け止めてくれた。 「ロロは甘えん坊だな」と笑ったけれど僕は本当にそうなればいいのにと思った。 (きっと僕の体内にいるのはナナリーなのだろう。兄を返せと僕を殺そうとしているに違いない) でもきっと少し意味を勘違いしている。(違うんだ。僕が望むのはね、兄さん)

「ずっとそばにいて、兄さん」
「うん、わかってる、大丈夫だよ」
「違うよ、ずっと。…ずっと、一緒にいて」

体を離して目を見て言うと、きょとんとした兄さんは僕の言葉の真意に気づいたのだろう。 ふふ、と笑う声を洩らしてにこりと笑った。(それは眩しくて目が開けられないほどだった) また髪を撫でて、目を細めて僕を愛おしそうな目で見て。

「ああ、ずっと一緒にいような、ロロ」

もうずっとこの人の記憶が戻らなければいいのに。そうすればずっと僕の兄さんでいてくれるのに。
僕は本当にそう思った。










真昼の月が少年に見せた夢
それは忘却の彼方からこの人が返ってくるまでのひと時の




















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本当の弟になりたいロロと無意識のうちにナナリーと重ねているルルーシュ。
これはルルーシュの記憶が戻る前だけど戻った後の話も書いてみたい気がする。
もうロロとルルの偽兄弟が大好きだ。



2008.09.21